備忘録

99年生まれの大学生が、旅したり、ライブにいったり、良書に出会ったときに更新するよ。

オードリー若林の友人、朝井リョウに感化されたよ。

朝井リョウさんの「時をかけるゆとり」を読んだ感想文みたいな記事です。

 

 

私はラジオが好きだ。めちゃくちゃ好き。特にオードリーのオールナイトニッポンが好き。いいことが続いてテンションが上がりまくった一週間も、嫌なこと続きで飲みまくった一週間も、必ず土曜の夜には、お決まりのタイトルコールとビタースイートサンバとともに部室感満載のトークが繰り広げられて、得も言われぬ安心感に包まれる。この感じがたまらなく好きだ。ていうか「部室感」ってすげぇだせえな。あと、ビタースイートサンバはラジオを聞かない人はパッと思い浮かばないかもしれませんが、金麦のCMで流れてるアレです。

↓アレ


檀れいCM集 金麦 サントリー suntory

 

 

 

このラジオのエピソードトークにはオードリーの二人と仲の良いマネージャー、番組スタッフ、芸能人の名前がたびたび登場する。その中の一人が作家の朝井リョウさんだ。彼は数年前にゲストとして出演され、そこでのオードリーとの絡みはかなりおもしろかった。そこで、朝井さんに興味をもち調べてみたところ、なんとエッセイ集を出していることが発覚。そして、朝井さんが私と同じ大学生のときの出来事を綴ったものであることも発覚。さらに、タイトルが「時をかけるゆとり」とかいうなんかおもしろそうなものだと発覚。そんなワクワク情報を得て、私はすぐに古本屋に駆け込んでこの本を購入した。そして読んだ。

↓朝井さんがゲスト出演した回

www.youtube.com

 

 

 

朝井さんのエピソードには私と似通ったものがそれなりにある。例えば、日本各地に無計画で旅行した話は、私が昨年の春に青春18きっぷで無計画に東京から九州・小倉へと向かい、広島あたりで尻と腰が限界を迎えた話に似ている(ような気がする)。また、中学生時代に視力低下や花粉症がなんとなくかっこいいと思っていたという痛々しい話は、私が過激な言葉を用いたボカロ曲やカリスマラッパーの曲を死ぬほど聞きこんでいた話と似ている。書き起こしただけでも顔から火が出てしまいそうなほど恥ずかしい話である。

 

 

 

このような体験を私は、世の人々が生きる上で通ってきた「ありふれた体験」だと感じていた。そのため、自分は凡人であり、むしろ大学受験も盛大に失敗しているし、女性へのアプローチでうまくいった試しなどないため、周囲よりも劣っていると感じることが多々あった。

 

 

 

一方で、朝井さんは私と似たような経験をしているはずなのに、なぜか一つ一つのエピソードが輝かしいものにみえる。もちろん、早稲田大学在学中に直木賞を受賞したエピソードは、その見出しだけで眩い輝きを放っているが、その他のエピソードも地味な見出しからは想像できないほどおもしろい。高速バスに乗りながらこの本を読んでいたのだが、あまりにもおもしろすぎて度々吹いてしまい、隣に座っていた同年代と思しき青年に白い目で見られたほどだ。

 

 

 

この面白さは朝井さんが幼いころから築き上げた文章力の賜物であることは明らかだ。それに加えて、あえて一歩引いた目線で自分、または自分が属する集団を俯瞰する観察眼の鋭さによるものでもあるだろう。これは、数年前に読んだ朝井さんの著書「何者」でも感じたことであり、作品内における仲間と協力して就活を乗り切ろうとする主人公の自らに対する考察が鋭くてゾクゾクさせられた。そして、その観察眼は朝井さんが数々の文章を思考する過程の中で鍛えてきたものだろう。私は大学生の日常がこんなにもおもしろく描写されていることに感激した。

 

 

 

 

いま世間ではインスタグラム大流行中であり、そこら中に“映え”を狙った写真を撮ることに命を懸ける、それはもう逞しい人々で溢れかえっている。こんなふうに斜に構えて揶揄する私も、なんやかんやで友人たちが投稿した写真に影響されて、年に数回ほど映えスポットに行ってちゃっかり写真を撮ってしまう人種の一人である。

 

 

 

しかし、改めて考えてみると、インスタグラムのような写真メインのSNSによって、その写真に写っている”一瞬”しか振り返ることができなくなってしまう身体になってしまっているのではないかと思う。本当はそのきれいな写真の裏には、道中のあれこれ(立ち寄ったサービスエリアの喫煙所が簡素すぎて喫煙者同士でネクスコに対する文句を言いあったり、旅館で夜通し尻フェチの友人の講釈を聞かされたりするなど)がたくさんあるはずなのにだ。それが全く言語化されず、たった数枚の写真に集約されてしまうなんて、なんとまぁ悲しい話だろうか。そのため、この大SNS時代、美しい写真を撮るのが苦手な人たちは、本当はそれなりにいろんな経験をしているのに、「自分は充実していない...」と感じて、ネガティブな気持ちに苛まれてしまうのだろう。自分もその一人だ。

 

 

 

思い出が写真で共有できて、簡単に他人と日常の比較ができてしまう今だからこそ、経験を言語化して、自分と向き合うことが必要なのではないか。このプロセスによって、どんな人もそれぞれの日常に”彩り”を見出すことが出きるだろう。朝井さんのこのエッセイのように。

 

 

 

また、経験の言語化のプロセスによって身についた発見力や分析力こそが、課題発見力、解決力につながるのではないだろうか。これは高校の総合の時間とか大学のキャリアセミナーみたいなやつで口酸っぱく言われ続けたアレなのかもしれない。というか多分そうなんだろうけど、私はこの本を読んで振り返る中でやっとこんな重要なことに気づいた。いや、遅すぎないか?

 

 

 

というわけで、これから私は旅に出たり、ライブに行ったり、良書と出会ったときには駄文を綴っていこうと思います。SNSで無駄に他人と比較して落ち込んだりしないために。そう遠くない“就活”とかいう通過儀礼のために。

 

 

どうか三日坊主になりませんように。

 

 

 

 

時をかけるゆとり (文春文庫)

時をかけるゆとり (文春文庫)